大正時代の破産

1破産法(大正11年、1922年)

明治26年の破産法は商人破産制度をとり、商人でないものは家資分散法の対象となっていましたが、大正11年に制定された破産法は、商人・非商人を問わず対象としました。そこで家資分散法が廃止されました。

明治26年の破産法は、フランス法にならったもので、破産者が破産手続中に取得した財産も破産財団を構成することになっていました(膨張主義)。
しかし、大正11年の破産法は破産宣告時に破産者が持っていた財産のみで破産財団を構成することになりました(固定主義)。

大正11年の破産法は、ドイツ法を模範としています。
明治34年に法案が公表されましたが議会には提出されず、大正3年に草案がまとまり、ようやく大正11年に成立したものです。
破産申立は、債権者でも債務者でも、いずれも出来ます。

裁判所は地方裁判所ではなく区裁判所が扱い、申立書には一円の印紙が必要でした。
予納金は自然人が300円、法人が500円程度でした。ただし、予納金については今と同じく国庫仮支弁の制度がありました。

破産手続費用をまかなえるほどの破産財団がないときには、同時廃止となりました。
このときには、現在も同じですが、「破産手続進行の場合と異なり、破産者は居住の制限、引致監守、通信制限、財産封印など破産手続進行にともなう外面的制限を受けないから苦痛がほとんどないと言ってよい。
従って、破産を威嚇の具に供することが出来ない結果」(『破産法』前野順一、昭和3年発行)となります。

破産管財人は破産裁判所が選任して、その監督を受けます。
破産者となったときの不利益については、破産法ではなく特別法に規定されています。後見人・後見監督人になれない。
親族階の構成員になれない。国会議員の選挙権・被選挙権を持たない。破産宣告を受けた国会議員は失格する。
地方自治体の議員についても選挙権・被選挙権を持たない。商業会議所議員の選挙権・被選挙権もない。
判事・検事に任命されない。高等試験・普通試験・教員検定試験が受けられない。
弁護士・公証人・弁理士・執達吏になれない。取引所員・水先案内人になれない。小学校教員の免許状の効力を失う。私立学校の校長・教員になれない。
このように、現在の破産者の不利益とは似ているところもあり、異なるところもあります。

破産宣告は、戸籍簿に記載されることになっていました。これは現在とは異なります。

2復権

大正11年の破産法も、明治26年の破産法と同じく、破産者は免責されませんでした。しかし、復権は認められることがありました。

ただし、明治26年の破産法では、破産者が元利金と費用の全額を弁償しないと復権申立ができませんでした。
大正11年の破産法では、弁済だけでなく免状や時効消滅などでも復権申立はできるということになりました。

必ず破産者自身が申立しなければならず、職権による復権は認められませんでした。

また、破産者が死亡したあとの復権申立は認められなくなりました。
その理由について「現行破産法は破産の直接の効果として名誉権をはく奪するがごとき懲戒主義をとらざるがゆえに破産宣告を受けたりとて直ちに不名誉なりと言うを得ず、その必要なきもの」と説明されています。

3破産手続の実情

大正13年当時の破産申立は、年間に全国で3000件ほどで、継続案件の1000件と合わせて4000件の申立件数のうち2000件近くが取下で終了しています。
個人の自己破産申立は年に4、5件ほどで、ほとんどが債権者申立でした。
つまり、債務者に対する「威嚇の具」として破産申立が役に立つと、取り下げられていたわけです。
破産宣告は、年間600件ほどでした。そして、申立棄却も300件ほどありました。破産宣告のうち、同時廃止は1割、60件前後です。

ちなみに、戦前・戦後を通じて「サラ金破産」で破産申立が急増するまで、戦前の1930年(昭和5年)の4444件が最高でした。

このとき債務者申立は15件しかありません。
戦後はずっと2000件前後のままで推移してきましたが、1970年代以降は次第に減少し、年間1400件程度にとどまっていました。
つまり、1970年代までは破産手続は債権者のための債権回収の手段としてしか使われてこなかったわけです。
その後、大阪の弁護士グループが破産申立を消費者のために活用するという手法を編み出し、このため自己破産申立がふえることになりました。
1982年に5000件を超えたあと、それ以降は毎年1万件を超えることになって今日に至っています。

大正13年当時の破産申し立てから破産宣告までの期間はおよそ1年以内で、3か月とか6ヶ月内で大半がすんでいました。

破産債権の額は1万円以内が多く、10万円以内に大半がおさまっています。配当率は5%までが多く、25%までで大半を占めています。

復権申立は、要件が厳しいせいか少なく、年間に50件から70件くらいしかありませんでした。そして、その6割程度が復権を認められていました。