明治時代の破産

明治維新のあと、フランス法やドイツ法にならって新しく破産法が制定されましたが、法文の形式はともかくとして、内容的には江戸時代の分散や身代限の実績をふまえたものと思われます。

1華士族平民身代限規則(明治5年、1872年)

江戸時代の分散および身代限の手続は、明治5年の「華士族平民身代限規則」の制定につながりました。
これは、華士族と平民の間で身代限についての扱いを差別することを認めたものです。
具体的には、華士族では家禄や冠服が差押禁止となり、平民では職業上必要な物品(ただし、50円まで)や1か月分の家族の飯米が差押禁止となっています。

身代限の決定は、裁判所門前の高札や本人家宅に30日間(翌年、60日間に延長されました)掲示を出すほか、新聞紙に載せることになっていました。

身代限については、江戸時代に引き続いて非免責主義がとられており、明治6年の「金穀貸借請人証人弁償規則」(太政官布告195号)によると、債務者本人で足りない時には保証人(請人、証人)に対して身代限を申立できますし、それでも足りないときには、その相続人に対しても申立できることになっていました。
このときには、「身代持ち直し次第皆済する」という証文を相続人らに書かせることができました。

2家資分散法(明治23年、1890年)

強制執行を受けても弁済する資力がない債務者については、裁判所は職権で、また申立により家資分散者たる宣告をしなければならないとされました。
この法律は非商人を対象としたものです。

家資分散者として宣告を受けると、裁判所と市町村の掲示場で公告され、宣告日から選挙権・被選挙権を失います。

3破産法(明治26年、1893年)

明治23年に商法が制定されましたが、その第三編に破産法が含まれていました。

しかし、この商法は翌明治24年から施行される予定でしたが、施行が延期され、会社・手形・破産法として明治26年7月から施行されました。
この破産法は商人を対象としたものです。

破産宣告があると、裁判所の掲示場や破産者の営業場に貼付し、新聞紙に公告することになっています。

破産宣告を受けると、議員になれず弁護士は失格するなど、公権を喪失します。
また、株式会社の取締役になれないなどの制限も受けます。これを私権の喪失と呼びます。
ほかに、合名会社・合資会社の社員になれない。商業会議所の会員になれない。
取引所に立ち入れず、仲立人になれないという制限も受けました。

破産管財人は、司法大臣が裁判所の意見を聴いて任命します。管財人の任期は3年です。

破産手続の費用が破産財団でまかなえないときには「破産の停止」が命ぜられます。
停止後は、各債権者は破産者に対してここ独立して請求することができます。

不免責主義がとられていて、破産手続が終結しても、残債権について債務者に対して無限に追及することができました。
ただし、債務者が元利金および手続費用を債権者全員に弁償したときには、復権が認められました。
なお、必ずしも現実に弁償しなくても、法律上弁済があったとみなしうるときにも復権が認められるべきだと解釈されていました。
復権は破産者が死亡していても認められました。
これは、破産宣告を受けるのはきわめて不名誉なこととされていましたから、家名を回復するための制度でした。

なお、現行の強制和議に相当するものとして協諧契約という手続がありました。
しかし要件が厳しく、これが成立することはあまりありませんでした。