江戸時代の破産(その3)

1身代限の手続

身代限は債務者の財産に対する裁判上の強制執行であって、分散とは異なり必ずしも多数の債権者が競合することを要しません。

身代限は、武士に対しては認められていませんでした。武士だけでなく、寺社関係者、能役者、由緒ある町人、御用達町人も身代限から除外されていました。
つまり、身代限というのは、一般の町人と百姓に対するものでした。
武士に対しては「揚屋入」が申しつけられ、寺社・能役者、御用達町人に対しては「咎」が申しつけられることになっていました。

百姓や町人に対する身代限についても、すぐ申しつけられるのではなく、その前に一定の期間(たとえば30日内)に完済することが命じられ、その期間内に完済できないときには分割返済が命じられ、このいずれも出来ないときに初めて身代限ということになりました。
しかも、分割金を支払わないときでも、すぐに身代限となったのではなく、その前に押込みまたは手鎖の手続がとられました。
これは一種の人身拘留ですが、強制執行としては間接強制にあたります。

大阪では、銀高10貫目以下の金銭貸借や売掛金の裁判では60日内の弁済が命じられるのが原則でした。

これを支払わないときには61日目に手錠掛30日となり、91日目に身代限となりました。債務者本人が病気のときには押込です。

ただし、債務者が女性のときは、たとえ健康であっても手鎖をかけず、ただちに押込となりました。

身代限の手続は、まず債務者本人が身代限請證文を提出し、債務者側の町村役人か所役人(五人組、目付同心をふくむ)が立会して債務者側の全財産が換価処分されることになります。このとき、債務者の財産について「諸色附立帳」が作成されます。
ただし、天保以前は、売却処分することなく、財産そのものを債権額に応じて債権者に引き渡し交付していたようです。

2死亡で中止せず

債務者に対する債権取立は、債務者が死亡したからといって終わるものではありませんでした。
全債権を完済してもらうまで身代限の手続が続くのが建前でした。

3隠匿財産

身代限を免れるための財産隠しが江戸時代にもさかんに行われていました。これを大阪では「のけ荷物を致す」と呼んでいました。

たとえば、所定の商業帳簿を不明確にして財産の現況をわからないようにしておく、もとの屋号を残したまま別の屋号で商売を続ける、財産を他人名義に書きかえるなどです。
このようにしたうえで、債務者の方から積極的に身代限りを持ち出すのです。

これらの詐欺的行為が発覚したときには「3日さらしのうえ所払」の刑に処せられました。
これは、いわば今日の強制執行免脱罪(刑法96条の2。2年以下の懲役または50万円以下の罰金)に相当するものです。

4非免責

身代限が執行された後の残債務については免責が認められていませんでした。
債務者が弁済能力を回復したと認められたときには、債権者はいつまでも残債権を請求することができました。

身代限を受けた債務者が分散と同じような身分上の不利益を受けていたのかどうかははっきりしません。

5利息制限法

江戸時代は、はじめ年2割が利息の最高限度と定められていましたが、元文元年に1割5分に引き下げられ、それ以後は年1割5分以上の高利の貸借に関する訴訟は取り上げないことになりました。
その後、天保13年に、さらに年利1割3分に引き下げられました。

しかし、実際には年利5割ないし7割の高利もあっていたようです。

また、人身担保は禁止されていましたが、実際には盛んに行われていました。
借金を完済するまで労働させられるもの(質物奉公)と、債務を完済しないときに初めて身柄が引き渡されるものの二つがありました。

≪参考文献≫
『徳川時代の文学に見えたる私法』(中田 薫)
『近世に於ける身代限り及分散続考』(小早川欣吾)
『西鶴集・下』(日本古典文学大系四八、岩波書店)
『日本永代蔵』(角川文庫・現代語訳)
『全国民事慣例類集』(司法省)