~暮らしの中の権利を守る~不知火合同法律事務所

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江戸時代の裁判

○裁判件数の多さ

 日本人は昔から裁判を嫌っていたというのが今日の「常識」になっています。しかし、本当のところは、江戸時代は今と比べて驚くほど裁判件数が多かったのです。
 江戸にあった3奉行所が享保3年(1718年)に受け付けた裁判件数は3万5千件を超えており、そのうち3万3千件が借金に絡むものでした。翌年の享保4年(1719年)には、それが少し減って2万6千件のうち2万4千件となりましたが、それにしても大変に多い件数です。大坂町奉行の方も多く、天明3年(1783年)も翌年(1784年)も5千件を超えています。これらは当時の人口を考えると、現代日本の訴訟件数が日本全国で年間30万件ほどしかありませんから、異常に多い数字です。ちなみに、終戦直後の1948年の裁判件数は3万件でした(当時の人口は8千万人)。なお、当時の江戸の人口は俗に100万人と言われますが、実数はそれほどではなかったようです。

 江戸時代に裁判が多かった理由の一つとして、印紙などの一切の手数料が不要で、また訴訟費用の敗訴者負担ということもなかったことがあげられます。要するに、庶民はタダで裁判所(奉行所)を利用できたのです。また、当時の庶民は寺子屋がよく普及していたので、一般に読み書きができて書面が書けたうえ、多数の公事宿があって裁判慣れした人たちがかなりいたことも理由の一つとしてあげられます。

 いまの私たちには、「士農工商」とか「切り捨て御免」という言葉から、町人が武士を相手に裁判するなんて考えられませんが、実は、当時、庶民が武士を訴えることにためらいはなく、むしろ裁判では武士の方が不利だと言われていたほどです。

 「ご当地は武士を相手取りて訴訟すること容易に出来る故、少しのことも大騒に申立て出づる事なり。ここにおいて双方五分づつの失なる時は、先ず武士が負け、町人が勝つなり。もちろん武士は十の内九ツまでりくつ宜しくとも、後の一ツに利欲の筋あれば、その一ツにして負くる事なり。よって少しばかりの利欲に拘りたる事にて、従来の大恩をうけし武士を、町人が取って落とすことあり」(『世事見聞録』)

 これは江戸時代も末期となった文化13年(1816年)ころに書かれた本ですが、次のように裁判の急増ぶりが嘆かれています。

 「当世、公事訴訟の数の多き事、元禄享保の頃より競ぶる時は、10倍ともなりしか。往昔、板倉伊賀守は、茶臼を挽きながら、公事を聴きしといふ。閑暇なる事なり。その頃は奉行所に出る事を止めしと見ゆ。その頃より見競ぶる時は、元禄享保の頃は定めて10倍程にもあらん。それより今はその10倍などにもなりなん。これ世の中に曲り犯したるもの繁多なるゆえに、下々上をしのぐ悪知恵増長して、聴所へ出る事を心安く覚えたるが故なり」(『世事見聞録』)

 この『世事見聞録』は図書館で借りて読めますので、江戸時代の世相に関心のある人はぜひ読んでみて下さい。江戸の人が今の日本人と同じような考え方と行動をしていたことがよく分かります。

○町人による武士への借金取立

 江戸時代の町人は、武士にお金を貸しても踏み倒されて何も言えなかったというイメージがあります。しかし実際には、借金を返そうとしない武士に対して町人が黙っていたわけではありませんでした。

 江戸町奉行として有名な大岡越前守が将軍(徳川吉宗)に対して提出したお伺いは、次のとおりです。

 「借金について武家方へ町人が催促のためにまかりこし、少しずつ金子を相渡すのにこれを承知せず、後家や妻子を差出し、供を割り、理不尽成体いたし、駕籠馬について門玄関に相詰め、慮外いたす者について、その理非は追って吟味するとしても、その仕形が不届なので、このような慮外した者は男女の差別なく手鎖としたらいかがか」

 町人が武士の行列に割り込んで借金の取立をしたり、門前や玄関に詰め寄ってまで催促していたというのです。私たちのイメージはまるで間違っていたのです。この伺いに対する回答は「それは結局のところ借りた方が悪いのであって、そうでもしないと返してもらえないというのだから、とがめだてに及ばず」というものでした。

 しかし、町人のこのような借金取り立て行為をそのまま放置すると武士の体面を大いに傷つけるというので、享保14年(1729年)に、次のような禁令(御触れ)が出されました。

 「借金銀や売掛金が滞ったからといって、ところどころ武士方門前に、近頃、町人が小旗や札を立てて催促しているが、これは法外なる仕方だからしてはならない」

 町人が武士宅の門前に「お金返せ」という小旗を立てていたなんて、実に痛快極まりないことではありませんか。また、次のような報告もあります。

 「佐竹候が浅草の雷門前の広小路に出たところ、あるものが裸身に佐竹候定紋付の上下を着て竿の先へ訴状を結びつけて佐竹候の前へ差し出したので、馬上よりはねのけさせられたが、その後も棹につけて近習へ差し出したので、取って投げたら訴状が屋根の上に乗ったという。訴状によると、この者は年来、佐竹候に出入している者で、8万5千両も貸しているものだという。ところが、今度、この者を無視して、ほかの町人が用いられたので立腹して直訴したのだという。このあとはどうなったか知らないが、珍しいことだ」
「佐竹候に浅草雷門にて裸身に麻上下を着て訴状を差し出したのは両国柳橋の藤屋という米屋だという。これまで二人で佐竹候に用立していたところ、もう一人には金杯が下されたのに藤屋にはなかったので立腹して直訴したのだという。しかし、ようやく150両出されることになって内済(示談)ですんだという」

 これは『よしの冊子』という江戸時代の本に書かれているものです。時代は天明7年(1787年)から寛政4年(1792年)ころまでのものです。

 町人が武士を恐れず、それも下級武士どころかお殿様(旗本)に対してまで直訴している様子が分かります。しかも、それに何らのおとがめがないうえに、町人がいくらかの勝利を得ていたというのです。